新着・R6/03 私の卒業旅行 小林祥子
新着・R6/03 『房の國』は吾が終焉の郷 田嵜隆三
・R5/10 柿の思い出 小林祥子
・R5/07 私にとっての 3悪 佐藤彰男
・R5/02 春の訪れ 小林祥子
・R4/11 38度線を越えて ”北朝鮮からの引き揚げ” 河村昌子
・R4/09 『下総』吾が第2の故郷 田嵜隆三
・R4/08 『下総』吾が第2の故郷 田嵜隆三
・R4/07 私の俳句散歩 佐藤彰男

私の卒業旅行 令和6年3月 小林祥子

平成10年の秋、まだ50代半ばだった私は5泊6日の中国の旅に出掛けた。
その時の同行者に横浜から参加した上品な老夫婦がいた。
「夫がむかし戦争で中国に行っていて最初の海外は中国に行ってみたいというので中国を皮切りに二人で海外旅行に随分でかけたけれど、もう歳なので最後の旅行はまた中国で閉めようと今回参加したのよ。貴女はまだお若いのだからこれからどんどん海外に出掛けるといいわよ」と励ましの声をかけてくれた。

あれから24年、私はあの奥様の言葉を胸に折に触れ、海外の一人旅のツァーにも何度も参加した。楽しい思い出も沢山できた。
しかし令和2年に3泊4日九州一人旅の広告を見て引かれるように参加した。
丁度コロナの始まりで横浜港に大型豪華客船プリンセス号が足止めされ、連日そのニュースが流されていたせいか大分キャンセルが出たらしかった。
それでも9人の参加者が集まりこじんまりとした和気あいあいの旅になった。

今回のこのコースは大阪南港から瀬戸内海をクルージング、翌朝九州の大宰府から柳川クルーズ、長崎ランタン祭り、ハウステンボス、祐徳稲荷神社など国内でも全部行ったことがないところばかりだった。
前から機会があったら一度は行って見たい場所だったので絶対キャンセルはしたくなかったのだ。行くなら今だ!と思いきって参加して良かった。

光陰矢のごとし、いつのまにか参加者の中で私が最年長になっていた。

これを機に一人旅を卒業しようと決めた。そうして同行者の若い方に中国の旅で出会った老婦人が私にかけてくれたあの言葉「貴女はまだ若い! これからどんどん旅行に出掛けてね」と同じ言葉を伝えた。

しかし皮肉にもその後3年コロナ禍で外出がままならないご時世になってしまった。
こうして卒業旅行が出来たのはあの老婦人が私に贈ってくれた言葉があったからこそと感謝している。

『房の國』は吾が終焉の郷
  令和6年3月 田嵜隆三

先年、この欄に『吾が埴生の里』は竹馬の友と山川・街がコロナに侵され喪失した。もはや心休まる天地は吾が布施新町を中心とする房総・相馬の郷しかないと書いた。
何人かの同輩から「そうだそうだ」と同感の言葉を戴いた。何分、宜しくお願いします。

その後、もう一段『房の國』は吾が終焉の國化に嬉しい情報を得たので、『いきさつ』をも紹介方々披露させて戴きたい。

それは早春季花の梅花絡みの情報で、私の行く処の全てに在って それぞれ我世の春を謳歌している。自宅近くの あけぼの山農業公園、他に 大宰府梅園、座論梅の梅園 養老渓谷の山腹梅園 で、それぞれ私が魅せられた経緯を紹介したい。
きっかけは30年前で、現役の頃 早春の奈良に出張の折り訪問した梅園にあった俳人=高濱虚子の下の句が私を虜にし今に至っている。残念ながら、梅園名や場所名は忘れたが大好きな俳句である。いつしか、私の観梅讃歌になってしまった。

紅梅の べに紅梅の 色重ね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高濱 虚子

あけぼの山農業公園は、私の居住団地隣接公園内の梅園で事によせ・時に触れ再々訪園して眺める他、犬の散策がてら訪れているし毎週の木曜日にも『脳トレ ウオーク』の仲間と散策している公園で最も目のつく所に梅園がある。

大宰府梅園は、およそ日本人で知らない人はないと思うし訪園されていると思う。勿論、九州人の魂の地で現年号が=『令和』の号名発祥の地(令和の元歌が詠まれた)梅園 

座論梅の梅園は、九州・日向の高鍋藩の一隅で、初代神武天皇が即位前で豪傑青年=ワカミケヌ命時代 領内巡視の時もっと豊かになれと『下賜された杖』が蘇生し、豊穣の梅を実らせる巨木の臥龍梅になった大梅園で高鍋人や宮崎県民が必ず参拝し鑑賞する梅園で、私にとっても今日の豊かな老年生活を授かった魂の梅園

養老渓谷の山腹梅園は幕末の頃、高鍋藩士で、高鍋高校の前身=明倫堂の日高教授が時代の変革(京都⇒関東&学門立国)の転換用育英資金を稼ぐ手段として下総・市原 の『養老川』上流奥地の山腹 約230町歩を開墾し植栽した梅園。
明治維新~百年間、高鍋関係者のみの梅園だったが、たまたま梅園下の養老川の溪谷が『チバニアン≡ラテン語で千葉時代の意』である事が判明し此処が世界唯一の地層学上の珍しい地層=地球上で地質時代の(77万~12万)年前の地磁気逆転前の地層の在る所として脚光を浴びた為に引立てられて有名になった日向人的梅園。

①あけぼの山農業公園の観梅讃歌

吾決めた 終焉の地に 咲く梅は 香高くして 色朧なる紅白ぞ・・・・田嵜隆三

あけぼの山白とピンクの咲き分け梅

今の世は、花と言えば桜だが、平安時代『光る君へ』の時代は全て梅の花でだった。
武家社会なって、潔く死ぬ事が称賛されるようになり、又新しい花卉への変化から桜が愛でられる様になった。豊臣秀吉政権以降の泰平の世以降は桜が最寵愛の様だ。

私は、幼児期~今日迄『梅讃歌』ばかり聞かされて育ったので此のエッセイテーマは梅を紹介させて戴く事にした。何より、梅が10分の距離で待っていますので。

房総・東葛人にとって布施弁天の前山たる『あけぼの山』は布施人なら皆知っている所だが東隣の農業公園の花壇は意外と訪園しない、此処は専門家の手造り公園で素晴しい。此処に25種類・100本の梅が満開する。梅園内にも上下・左右に散策小径があるので虚子先生の如く、色重ねが見られる。

今、私は『脳トレウオーク会-木曜日』の班で毎週 仲間達と7000歩ノルマ目標に交歓と諸情報交換 の社会参加をやっています。最も頻繁に行く所は『あけぼの山農業公園』でここの旬の花を見る事です。幸い、我が班には、複数の『花の専門家』がいます。
佐倉市『草笛の丘』の花卉職員さんから此の農業公園の農地を借用し栽培をしていて毎朝訪園する写真家、毎日お散歩に訪園する筋トレ派がいます。従って、逐一最新の花情報が得られます。
現下の最多の花情報は『見頃の梅』です。蝋梅こそ時期が過ぎたものの満開の紅白の梅に、幼き日、故郷の座論梅-神社の御神職から2/11の紀元節祭典の甘酒会・神武様東征準備のご苦労話が彷彿します。

⓶大宰府梅園の観梅讃歌

初春の 月にして 気淑く 風らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす

 令和        ・・・・・・大伴旅人(万葉集歌人)+中西進

奈良時代の律令体制下、唯一の例外として高度な判断権限を与えられて中・韓・越国と外交折衝上の迎賓と國宗誇示のために設けた大梅園は九州人の誇り。逆に、大宰府の梅園を知らない九州人は、偽者と評されるほどに有名な梅園です。

大宰府天満宮

③座論梅の観梅讃歌 

座論梅 神武様下賜 杖蘇生 臥竜梅化し 今も守護さる・・・・・・・・・・・・・・田嵜隆三

宮崎県の古い呼び名は日向ですが地元では日州(ニッシュウ)と呼びます。初代天皇の御名は神武天皇です。しかし日州王時代は『ワカミケヌの命(ミコト)』とお呼びしてました。
非常に高徳な方で、領内を巡っては「富めよ・豊になれよ」と督励しておられました。
ある時、後に高鍋藩領になる湯の宮を視察されたが余りの貧困を哀れ見られてお持ちの杖に「農家を富ませよ」と遣わされました。杖は巨大な龍状の梅に蘇生し(クリックすると別タブで宮崎県観光協会の写真が開きます)沢山の実を成らせて地域の農家は豊かになりました。現在の梅は1本樹で樹齢600年です。

天然記念物湯ノ宮座論梅:宮崎県観光協会
座論梅を詠んだ高山彦九郎の詩碑:宮崎県観光協会

④養老渓谷山腹梅園の観梅讃歌

明倫の 大先輩の 植えし梅 房の郷にて育英果す・・・・・・・田嵜隆三-    

私のルーツの始まりは九州・宮崎の北端・高千穂の小邨=三田井だが、幼時に両親を失った私が育った所は宮崎県中部の城下町=高鍋である。此処は、僅か3万石の小藩だが奇跡にも近い経緯で明治の御代~まで存続し,高鍋藩のまま町制化した町である。 
高鍋藩主の秋月家は北部九州に在って約30万石程の中名だったが本州・四国を制覇し九州平定に来た豊臣秀吉軍に逆らって正面から挑戦し完膚なき迄叩かれ、通常なら取潰されるところを中央政府から見て最大の敵=薩摩の見張りと暴走時の杭用に当時薩摩の北限だった宮崎県中部の大河=一瀬川北岸に転封されて存続した。
その後、薩摩家は豊臣政権に恭順したので薩摩見張りの用は無くなったが、徳川政権になると改めて反徳川幕府を標榜した薩摩の見張り役として明治時代まで存続することになる。
この時も薩摩絡みの奇妙な務めは続き、明治新政府軍(大将:西郷隆盛)の先鋒として北陸・東北掃討に出兵した一方西郷軍に心酔した為に西南戦争では、反官軍として布陣中『田原坂』の戦いで会津隊に突破され、西郷軍敗退の因となる。これ以降、高鍋は武力立国から学門立国に転換する。
学門立国での高鍋藩の若手藩士は新政府の官僚として奉職(特に文部省・農林省・陸海軍)するが、京都の政府は消滅するので江戸の政府への恭順こそ肝要とした先覚者『日高誠実』は関東の地(現在の市原市・梅が瀬)に高鍋出身の子弟の進学に必要な財源工作を計って230町歩の巨大な梅園と補習施設を造った。

残念ながら、令和3年の台風来襲で日高邸跡や梅園とアクセス道路は崩壊のままの由
そこで、梅園の下にある地質学上の名勝『チバニアン』=千葉の時代=について紹介させて戴きたいが、これは後日談とする。                        
                  <本稿=完=>

柿の思い出
  令和5年10月 小林祥子

私には柿の季節になると思い出すことがある。
両親の故郷、山形県鶴岡市には庄内柿があり、私の子供の頃、鶴岡の祖母が私達が住んでいた千葉県君津郡久留里の我が家宛に毎年柿を送ってくれていた。
当時柿は木箱に入って送られて来た。
渋を焼酎で抜くので⭕月⭕日開封と書いてあった。早く開けると渋が抜けてないことがあるために書いてあったのだと思う。

戦後しばらくは今のように宅配便などなく唯一鉄道輸送であった。それで開封日よりはるかに遅れて届くことも多かった。しかも駅止めで駅から連絡があると自転車で父が駅まで取りに行くのだ。
開封日をとっくに過ぎた柿入りの箱を開けると中の柿はジュクジュク。
慌てて皆でズーズーと吸った。
その後宅配便が出来、段ボールに詰められ、きちんと開封日前には我が家に届き、開けるとつやつやの良い色で美味しそうな柿が整然と並んでいてジュクジュクの柿が届くこともなくなった。

今は送ってくれた祖母や親戚もいなくなったが流通界は格段に便利になった。
スーパーでも格安に渋抜きの庄内柿の姿を見かける。
少しずつ買っては故郷の味を味わいながら、自転車で駅まで柿を取りに行ってくれたありし日の父の姿やジュクジュクになった柿の甘い汁を家族と吸いながら笑いあった遠い昔のひとときを懐かしく思い出す。

      小林祥子

私にとっての 3悪  令和 5年7月 佐藤 彰男

私にとっての3悪 その1 = 喫煙

善悪の基準は人それぞれであるが少々ヘソ曲りを自認する私も初っ端は全く真とも(?)である。
今は違うようだが嘗ては18歳になると酒と煙草が解禁になり大人の仲間入りの証しであった。

私自身、酒は嫌いでない(?!)が煙草は「悪」と自覚して吸ったことがない。
喫煙を廻る世間の対応は以前と大きく変わった。その昔は何処の職場も煙モウモウ、お蔭で間接喫煙を存分に味わったが幸運にも今まで肺癌にならなかった。

そして「今日も元気だ、煙草が美味い」「煙草は動くアクセサリー」など言うTV・CMが堂々(!)と流れていた一方では駅の線路には吸殻がギッシリで「線路は煙草を吸いません!」と言う標語が掲げられていたものだが、これも今は昔。

我が柏市も条例によりポイ捨てや歩き煙草には厳しい対処をしている。
只、残念なことにこの町のバス停には今も吸殻が散見される。喫煙は職場でもダメ!家庭でもダメ!となると通勤途上しか吸う機会がない愛煙家の苦境は分かるが町会の回覧板にも記載があったように、折にふれてこれを拾っている爺がいることを犯人(!)は知ってほしい。

私にとっての3悪 その2 = 麻雀

進学して初めて親元を離れた後、帰省した折の亡父とのやり取りを想い出す。

「オイ、麻雀を教えてやる。学生仲間では麻雀が盛んだろう」「自分は、そんなものはしない!」「ムムム・・」何とも可愛気のない息子で呆れたであろう。
然り、狭い部屋に煙草の煙が充満、不自然な姿勢で長時間、不健康の極みであり、おまけに賭け金が飛び交う。健全さを尊ぶ(!?)私がやるはずがない。そして時代は下ると若い世代は麻雀をやらなくなり、どこの会社の周辺にもあった雀荘が軒並み廃業に追い込まれたと聞き「やはり悪は滅びるんだ・・」と内心、安堵したものだ。

ところが更に時代が下った昨今、「健康麻雀」が俄かに隆盛となり町内でも“むつみ会” “いきいきネット”双方にクラブが設立されて賑わっている。週に3回の例会が開かれて特筆すべきは、ご婦人方の参加が多く、和気藹々の雰囲気で地域住民の交流に大いに寄与していることは周知のとおり。加えて脳トレに最適とのことが時代にマッチしていることも確か。

やはり時代は変わる。 それにしても女性たちが雀卓を囲むなど往時には考えられなかった。泉下の亡父は、この光景をどう見ているだろうか?毎夏、正に「墓にフトンを着せる」ために瀬戸内の郷里にお盆帰省しているが今度、墓石に向って聞いてみることにしよう。

私にとっての3悪 その3 = ゴルフ

前回から4年が経ち私も社会人になって最初の帰省時に又も父とのやり取りがあった。

「オイ、ゴルフを教えてやる。何と言ってもサラリーマンの必須科目だからな!」
「自分はそんなものはしない!」「ムムム・・・」全く変り者で親不孝な息子と呆れたであろう。
ゴルフを何故、遠ざけるのかは自分ながら明確な理由はない。とにかく生理的に受付けないというヤツで世の中にはアルコールが一切ダメと言う人が一定割合いるが多分あれと同じ?かと。

今も私の周辺には善良なる(!)ゴルファーが大勢おられるのでその点は居心地が良くないし、ゴルフをやらなかったための遺失利益は多大であろうとは思うが後悔はない。いや一つ?ある。
高校時代に淡い想いを抱いた女性が同窓会の折に「佐藤さん、ゴルフやんないの?残念だわ!」と言われたことが唯一?残念なこと。聞けば彼女は大変なゴルフ狂とのこと。やはり縁が無かった。

思えば父とは幼少年期には川や池、海での釣り、畑仕事と3兄弟の中で長男の私(上に姉2人がいる)が最もよく付き合ったはずなのに青年期になると(特に理由は思い浮かばないのだが)すっかり疎遠になってしまった。そして私が34歳になる直前に67歳で突然亡くなり麻雀もゴルフもやらなかった愚息の末路!を見届けることはなかった。

(♪ だから言ったじゃないの・・♪ 松山惠子=昭和33年)

そして来年は節目の50回忌。長男の務めで多数の子孫が集まる供養の手配をすることが当面の課題である。

(余録)麻雀・ゴルフをやらないことで、ひとつ思い当るのは「付き合いだから・・・」と称して意に沿わぬ誘いに巻き込まれることを忌避するためであったと考えられる。ところが、その後の自分は3友(学友・社友・域友=地域の友)との交友(交遊)が何より大切との観点に立ち、進んでそれらの世話役を引受けている。つくづく矛盾した性格(=人生)と思い至る。

私にとっての3悪 ~番外編~ ボウリング

むつみ会ボウリング部 例会での勇姿(?!)

えッ? だってあなたは「むつみ会ボウリング部」の代表をやってるんでしょう!

そのとおりです。経緯を以下に略記すると・・・

昭和の40年代、俄かにボウリングがブームとなった。また嫌なものが流行るもんだと苦々しく思っていた43年の秋、私は新入社員時代の4年余を過ごした大阪工場(枚方市)から東京の本社・財務部に転勤になった。仕事は四方八方から、お金を掻き集めることである。そして半年が経った頃、ある取引を巡って主力銀行と会社ぐるみの大喧嘩が発生した。しかし互いに大切な取引先で、いつまでもイガミ合っていられず、先方より「仲直りのボウリング大会をしましょう!」との提案があった。「フン!何とも子供じみた・・・」と生意気にも思ったが会社行事とあらばサボるわけには行かず初めてレーンに立った。ところが世の中にはビギナーズ・ラックと言うものがあるのだ。

私は思いがけず好スコアを出した。これに気を良くして会社の斜め向いのボウリング場で始業前の早朝(8:00~)プレーの常連となり、中間管理職になってからは若手社員との交流にも大いに役立った。以後も折にふれて、すっかり「得意科目」となり今日に至っている。

思えば、もしあの一大トラブルが無ければ私は終生、ボウリングに親しむこともなく第4番目の「悪」として毛嫌いしていたであろう。 ムムム・・と言うことは私がもし、若い頃から麻雀やゴルフに親しんでいたならば今頃は名人(?!)になっていたかも・・
「歴史に if は無い!」と言うが個人史もまた然り。つくづく矛盾に満ちた性格・人生である。

(注:このエッセイは「ふれあい健康体操 リーダーブログ日記」に閑話休題として記載したものを抜き出しました)

春の訪れ 
令和5年2月 小林祥子

春は三寒四温を繰り返しながら、やってくる。だがあの時は違っていた。春が突然に現れたのだった。

昭和28年の3月、私が小学校5年の春休み両親のふるさと、山形県鶴岡市に母と帰省したときのこと、4、5日滞在した後、東京に帰る時、雪が降りしきる銀世界の中を親戚に見送られて鶴岡駅から夜汽車に乗った。
一晩中汽車に揺られ朝、目覚めてトンネルを抜けたら、汽車は関東平野を走っていた。
朝日がさんさんと車窓を照らし、一面緑の田んぼの周りからは満開の桜のピンクが鮮やかに私の目に飛び込んで来た。
川端康成の「雪国」の冒頭、トンネルをぬけると雪国だった。だが真逆のトンネルを抜けると「春」だった。

一晩で季節が冬から春に変わった一瞬だった。

明治生まれの父が旧制山形高等学校の時に肺結核を患い、千葉県の一宮海岸で療養生活を余儀なくされた。
その時父はふるさと山形県の厳しい冬に比べ温暖な千葉県の気候に魅せられ、教師としての第一歩を千葉県に決めたという話を生前私は何度も聞かされた。
20歳の父が肺結核になったことはまさに人生の岐路だったのかも知れない。それ以来父はふるさとの鶴岡で暮らすことはなかったらしい。
今でも私は季節の移ろいは北風と南風が戦い南風が北風に勝って春が訪れると信じている。だがあの時は春が突然に現れたのだった。

墨絵のような景色が一転したあの彩りは今なお父母の記憶と結び付いて私の中に息づいている。

38度線を越えて “北朝鮮からの引き揚げ” 
令和4年11月 河村昌子

高らかに平和を誓う子らの声 とどけ地球のすみずみまでに

8月6日、9日と、広島、長崎では原爆犠牲者の慰霊祭がコロナ禍の中で行われ、子供代表者の読みあげる平和への誓いが会場に響き渡るのを万感の思いで聞きました。
戦後の荒廃から復興へ、誰もが不自由を不自由とも思わずに過ごした77年の歩みを思うとき、年々薄らぐ記憶の中を鮮烈によみがえるのは、当時10歳だった私の引揚げの体験です。

昭和20年8月15日の敗戦時、私の家族は父46歳、母39歳、姉16歳から弟2歳までの7人家族、黄海道沙里院市で父の勤務先 東洋拓殖株式会社の社宅に住んでおりました。

敗戦と同時に朝鮮半島は南北に分断、国境線が敷かれ、38度線からわずか北の沙里院はソ連の統治下になりました。それからは、昼夜を問わず扉を叩いて銃を持ったソ連兵が土足で上がり物品を要求、その度ごとに母と姉二人は防空壕に隠れるのでした。又あるときは、ソ連兵に追われた元関東軍の兵士が駆け込んで来たのを、父は危険を承知で匿い、数日後、裏口から密かに見送ったこともありました。

ある日、突然ソ連軍より「宿舎にするので二時間以内に退去せよ」との指令が入り、荷物を選別する暇もなく、リュック一つで郊外の知人宅に身を寄せることになりました。
ところが、父が居間の畳の下に隠していた大切な書類を置いて来たことに気がつき「先方には連絡してあるから取りに行ってくれないか」とその役が私に回って来たのです。後で考えると、大人では目立ち過ぎ連行されかねない、子供の方が目立たずに済むと判断しての使い走り役でしようか、それにしても炎天下の道は人影もなく不気味に静まり、子供ながらに緊張感で汗びっしょり、ようやく社宅に着きベルを押すと、若いロシアの夫婦が風呂敷包みを持って現れました。

受け取りに来たのが子供だったのに驚き、優しく話しかけて来るのを、お礼もそこそこに風呂敷包みを受け取り、ただただ走り、ふと振り向くと野犬が舌を出して追いかけてくるのです。その怖かったこと、幸い途中でいなくなりましたが生きた心地がしませんでした。

背後には闇に銃口開きおり 月冴えかえる三十八度線

10月21日の夕刻、リュックを背負った老若男女98名が懐かしい小学校に集まり、貨車に乗せられ 38度線手前で降ろされました。後は国境線を越えるばかり。ところが、昼間はソ連兵の監視が厳しくて危険、仮眠をとり夜出発の伝令。深夜にかけての出発となりました。まず腹ごしらえと四日前のおにぎりを弟に手渡すと、これはおにぎりではないと泣いて食べません。仕方なく鱈の干物を持たせると静かになりました。

父は弟を背負い先導に、未就学の妹は牛車に、姉二人は父の後を、集団の真ん中には母と私が並び、歩けど歩けど目的地は遥か先、猛烈な睡魔に襲われ、水溜まりに足をとられたとき休憩の伝令があり、大地に転がり眠ってしまいました。突然「昌子起きなさい」の声に眼を開けると、母の暖かい手が私の手をしっかりと握り「お父さんが、ゆっくり寝かしておきたいけど遅れるから起こせ」と、母の声に眼気もとび必死で歩き38度線を流れる青丹川につきました。浅瀬の飛び石を滑らないように全員が渡り終えたころには、しらじらと夜が明けていました。

無事国境を越えた私たちはその後、牛車六台を雇い、寝不足にうつらうつらしていると、治安隊とは名ばかりの検問所に連れて行かれ所持品の検査が始まりました。筵(むしろ)敷きの上に金目になる品物が積まれわが家の番になりました。父の背広、母の訪問着など素早く抜き取られましたが、暫くすると治安隊員の女性が、何か小脇に抱え戻って来るや、素知らぬ顔で母のリュックに入れたのは何と母の大切な訪問着でした。
彼女の一瞬の決断の優しさに、どのような境遇にも相手をおもいやる心の温もりを感じたのでした。

訪問着母から私へ娘へ継なぐ 百年ももとせ四季の花裾模様

ようやく京城にたどり着いた私達家族は、父の会社の社宅に起居し、引き揚げ船の出る釡山への出発を待つばかりでした。 
11月8日、待ちにまった釡山行きの貨車に乗り釡山港に到着、埠頭は乗船を待つ引き揚げ者が溢れ、帰国の順番待ちに使っていたのでしょう、先人達が残した、石を重ねた、にわか作りの竈で炊飯、着のみ着のままで船を待つ4日間でした。

11月12日、帰国船「徳寿丸」に乗船、船はすし詰めの状態でしたが横になるだけの空間はあり、エンジンの音と波に揺られこれまでの緊張感から解放されて眠り続け翌朝博多に到着。ところが、その日はアメリカ軍の休日と言うことで上陸できず、翌日DDTを全身に浴び、日本の土を踏むことが出来ました。

博多には引き揚げ列車が待っていて順次乗車、列車はゆめにまで見た祖国の地を走りましたが、都会を通過する度に目に入るのは空襲の焼け跡、神戸、大阪を通過するや黒々と広がる焼け跡に息を飲み、焼け残ったトタン屋根で囲んだだけのバラックや、野外で炊飯する人々の姿に、空襲を知らない私達はただ唖然とするだけでした。

首都圏に入るやその光景はすざまじさを増し、上野の地下道にたむろする戦争孤児達が、リュック一つの私達にまで物乞いの痩せた手を差し出すのには、恐怖と痛ましさが交錯、子供心にも敗戦のみじめさを感じた瞬間でした。

11月16日の夜、北上川沿いの田園地帯に住む父の故郷、宮城県桃生郡河北町に家族7人が無事に帰国しました。祖母、伯父、伯母、その家族に暖かく迎えられたことは僥倖と言うよりほかありません。  戦後、満州からは100万余の一般引揚者が、北朝鮮からは70万人が、生死を分ける苛酷な状況の中、祖国にたどり着きました。

その方達の体験を読み、聞くにつけ、一人の死者、病人も出さず帰国出来た私の引揚げ体験は、取るに足らぬものと思っていましたが、21世紀の今、2月に始まったロシアのウクライナ侵略に再びの戦争が 身近にあることの危機感を持ち、語り継がねばとの思いを強くしました。戦争で犠牲になるのは一般庶民であり大切な子供達です。

いざと言う時の軍隊は国民を助けてはくれません。

冒頭の「私たちが未来を創る番」と頼もしい声を届けてくれた子供たちのためにも戦争のない地球を残したい。これは戦争を知る世代の悲願であり、祈りです。

難民の列の映像にリュック背負う 少女のわれの影を添わしむ

編集者注:文中の短歌4首は河村昌子さんの作です。

『下総』吾が第2の故郷
 令和4年8月 田嵜隆三

『下総』吾が第2の故郷(1/4)  

浮き草の吾らの根絶つ恨のコロナ 帰省せぬ間に家・友逝った

お盆と甲子園野球の季節だけは、誰はばからず故郷の回想と自慢話が許されるものだが感染防止の逼塞の3年間に、状況が大きく変った様だ。この間に瞼の『田舎』は消滅し傘寿~喜寿の幼友=『トモガキ』は、次々に鬼籍入りしたり、老人ホームに入居の一方、リモートワーク化でUターンする若者(彼等も壮年)達が相続した実家だけでなく邑をも大-改造中で、墓参りのついでに実家や老友宅を訪問しても現れるのは怪訝そうに詮索眼の孫達や彼の嫁さんばかりの知らない邑。

たまたま、親切に連れて行って呉れた先は老人ホームで友人はそこの入居者。 
まさしく『浦島太郎帰郷風景然の故郷』に変貌らしい。名実ともに故郷消失!!
吾らは、もはやこの布施新町を新たな故郷と心得て『終の棲家』化の覚悟が必要らしい。先ずは、イキイキネットワークの同輩の方々には『新たなトモガキ』としてご厚誼をお願いする次第、何卒よろしくお願いいたします。

さて、私は布施新町の『終の棲家』化に格好の経験をしたので2-3紹介させて戴きたい。
先ず、次の和歌は誰が読んだのか、皆さんは判りますか?

よそにても風の便りに吾ぞ問ふ 枝離れたる花の宿りを・・平将門

<歌碑は、坂東市岩井公民館駐車場 に>

王朝文化が絶頂後の天慶の御代(AD940頃)、関東の下総(北千葉県~南茨城県)で朝廷に反旗を掲げて関八州を席巻の上、自らを『新皇』と居直った、日本史上第1号の逆族者=平将門(タイラ マサカド)が 敵将=平貞盛(タイラ サダモリ=将門の従兄で平清盛の高々(6代)々祖父) の女房(従兄妹)に攻撃を前に脱出を促した手紙の中の和歌

平将門の王城の地には、茨城県説(菅生沼周辺~坂東市)と千葉県説(手賀沼周辺~旧沼南町)とが在り多少の差異・同義があるものの、どちらも平貞盛が真の悪党で真正直・裏切りなしの任侠武将の将門は唆かされ載せられた、と信じられている。平将門はこの和歌を読んで、1ケ月後の坂東・北山の戦いで流れ矢に当たって死去し首が京に獄門曝しになる。その顔(絵巻)は鬼面そのものなるが、地元では誰も信じてなく、上の優しい和歌そのものの『貴公子像(坂東市音楽堂)』と確信し悲運で強い武将を慕う農民達は『この人こそ、我が在所の英雄』として1000年超しの本家争いまで展開しているが、史上の敗者にはない破格の扱いである。


ーー第1回分 了ーー


 『下総』吾が第2の故郷(2/4) 

千年の昔を辿る故事探査 大利根川の無き様読めづ・・隆三

<平将門王城の地の本家争い、利根川無ければ同じ下総-相馬の地>

さて、先回『平将門の王城の地』に、茨城県説(菅生沼周辺~坂東市)と千葉県説(手賀沼周辺~旧沼南町)とが有り双方が本家争いをしていると書いたが 先ず、九州人の私が知り得た想定外の事実と解釈違いの顛末から・・・・・。
(当然ながら、私に我孫子の魅力を教えた『我孫子の文化を守る会』は将門の王城の地としては[手賀沼周辺~旧沼南町]説のみで他説は教えなかったが・・・・・)
千年後の我々は典型的な同じ皿中の好物を両端から綱引きしていたのである。

葉県北部の古名は『相馬(ソウマ)』とか『下総(シモフサ)』と呼ばれる。是を地図で確認する際は現代の地図帳で確認しては大間違いする。
強いて参照するならば今の『利根川』は無いモノとし、現在の千葉県と茨城県は単一大地としての判断が必須だ。『下総』は現在の千葉県北部と茨城県南部からなる連続地なのである。
<今の利根川は、徳川幕府が武田残党(土木技術者)を使って洪水多発の江戸湾の陸進に関東北部の河川水を銚子方面に変流(=放水路化)する『利根川東遷』事業の遺産>

現在、平将門の王城の地は①茨城県説(菅生沼周辺~坂東市)と②千葉県説(手賀沼周辺~旧沼南町)とが在るも、①②の直線距離は20kmで利根川が無くば略同一の地。

進-中国から輸入され華が咲いた『律令制度』は、古代日本の統一に功績を上げたものの10世紀に入ると綻びが現れる。艶福家の天皇達が多くの皇子を設けられると荘園(収入源)に枯渇⇒氏を与えての平民化⇔地租免責の開墾競争発生。平将門は『桓武天皇の王孫=平高望王』の孫として下総にて誕生・成長した。都に修行(勤務)もしたがこの前、父親=良将は下総の多数の沼地(水深1m未満)を干拓しては水田化し富裕化していた。鎮守府将軍に任ぜられるも戦病死した。
一方、干拓下手の大伯父=平国香一族は良将の荘園を横取りした。特に平国香の長男=平貞盛は中央官僚=行政官として官の権限を使って『法的強奪』を計り此処に[(伯父vs甥)⇒従兄弟同士]の土地争い⇔骨肉戦となった。
朝廷は最初は身内の遺産争いと無視していたが、勢余った将門軍の兵士による役所(親貞盛)に乱入したとの報告に、朝敵=賊として扱った。彼らは全12回程大きな戦いをしたが、概ね 地元の英雄=将門が勝ったので天皇は、貞盛等の進言を容れ『将門に神罰を与える為成田山の造営』を勅願され開山と同時に将門の調伏を祈願された。

ーー第2回分 了ーー

(第3回,第4回分は次月掲載予定)

『下総』吾が第2の故郷(その2)
 令和4年9月 田嵜隆三

『下総』吾が第2の故郷(3/4)  

吾の師我孫子の先生将門贔屓(ヒイキ) 帝の願でも成田は詣ぜず・・隆三

門の最期になった、AD940年(天慶3年)2月14日(旧暦)の現坂東市・北山の戦いは当初優勢だった将門軍が小休止中に、それ迄将門軍に味方した強い追風が止んで逆風となった。兜を外していた将門の額に流れ矢が当り、即死した。戦上手の英雄将門も、今で言う『春一番』の知識はなかった様だ。
逆に、攻め手の平貞盛&藤原秀郷連合軍はこの時とばかり集中して『矢』を放った。これぞ朱雀天皇の『将門調伏』ご祈祷への天祐だった。

<是は典型的な、『春一番』気象であるが、朱雀天皇ご祈願への調伐と尊ばれている>

成田山新勝寺

朝廷を震撼させ征夷大将軍を相手に勇敢に戦った、賊軍=将門軍も任侠の親分だった将門が戦死しては副将=実弟達も無力のまま、一気に瓦解した。
攻め手の厳しい残党狩で、将門の4実弟や協力した武将達と女達は殺された。唯一の存命者は娘(後に如蔵尼として)で、国王神社に父=将門を祀って現在に繋ぐ。
この後は、平貞盛は再び京にもどって中央政府の官僚となって、6代後の子孫=平清盛等に継ぐが多くの武将は『坂東武者=兵(ツワモノ)』として在所する。多くは、京都に平清盛が君臨の頃 不平等に不満を抱く。彼らは清盛の晩年源頼朝の招請に応じ『坂東武者』団として平家を殲滅し200年間の鬱積をはらす。
<是を事由に1000年経つ今も尚 我孫子市民は『成田山』への参拝を遠慮してる、と>

門は政治的工作は下手の様だが、戦いや人心の掌握等には優れた才能を有した。 
是の『将門の乱』後1100年経つも人気者であり、担がれ易かった人物だった様だ。   戦って敵地に入りその地を占領する。是AD935-939年の短期間で関八州を手中に。  最期の無血入城の上野(群馬県)の古社で、興世王等に担がれて『新皇』に就いた。

<此の、担れたものの『新皇を自称し都建設』に着手—-が決定的な国賊の烙印に> 

朝廷は藤原忠文を征夷大将軍に任命して、大軍を特派し大攻撃をかけた。先述の下総・北山の戦いで成田山の 誅伐により戦死⇒首は京都に送られ掲首

<以上については、京の僧侶による『将門記』が有るそうな—–田嵜未読>

勝って都の官僚化した平貞盛の子孫(6代目)には、平清盛等が輩出するが世渡り上手はこの頃からだったのかもしれない。奇異なのは、公家⇒武家社会の転換期同じ高望王の孫達が身内争いをし、彼らの関係者の子孫が、200年後平家と源家に別れて争い、武家社会の先鞭化に至った事に面白い輪廻を感じる。

ー第3回分 了ー

『下総』吾が第2の故郷-4/

本日、天気晴朗なれど 波高し・・気象庁予報官:岡田武松→海軍参謀:秋山真之

平将門が、今では子供でも知っている『春一番』に配慮しなかった為の非運な戦死から1000年後に我孫子に超優秀な気象の専門家が登場し、我が国存亡の危機を救った事はご存知だろうか? AD1905年5月27日早朝、ロシヤ艦隊来襲日の未明冒頭の電報が気象庁から連合艦隊-参謀に届いた。参謀は全艦艇に捨身の戦法を下達。

<国松予報官→連合艦隊・秋山参謀⇒高波&高視界戦術≡敵前回頭他の実施を進言

<岡田武松氏(AD1874-1956)=我孫子出身⇒東大・理学部⇒中央気象台勤務の予報官>

後年、ドイツ軍がポケット戦艦と呼んだ2万トン級小型の戦艦とさらに弱小の巡洋艦から成る日本の艦隊が3~4万トンのロシヤ-バルチック艦隊に勝てる筈は無かったが、意表を衝いた敵前回頭(敵艦隊にT字状に対面し敵の1隻づつを全艦で攻撃≡海賊戦法)の効で日本軍は1隻もヤラレズ敵艦隊を全滅させたのが、冒頭の岡田予報官の電文だった。世界は全艦沈没は日本艦隊と信じ、ロシヤの宮殿は3昼夜の祝賀宴を催した。
逆に、日本軍は此の戦法を羞じ『大艦巨砲化』を計ったが対米戦で無力のままだった。

沼の鳰 はかないをなご 呼べどこず・・・・・・瀧井孝作

東京高等師範学校長の嘉納治五郎氏がAD1911に手賀沼を見下ろす我孫子-天神山に別荘を建てると3年後には娘婿の柳宗悦が来我して、いわゆる白樺派の文人達を招致し屈指の文人村出現、正岡子規後継のアララギ派の歌人達が・・山ほどの手賀沼讃歌を発表、下は『我孫子の文化を守る会』の先生から、習い虜になったほんの一部の短歌で珠玉の作ですが、私にとって『終りの日まで』続けられそうな『終生呪文』の数々である。

筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみを かなき渡りなむ逢ふとはなしに・・万葉集

指してゆく棹の取手のわたしもり 思ふ方へととくつきにけり・・徳川斉昭

下つ総に哀へ果つる手賀沼を 母とよび歌ふ声励まして・・・・・・・・鈴木国郭

かつしかや手賀の大沼に雪ふりて 鳰のなくきけば君ぞ恋しき・・中勘助

白鳥の翼に似たる大橋を 明かあか染めて秋の陽沈む・・・・・・・・・田嵜隆三

                              ーー第4回分 了ーー  

私の俳句散歩 
令和4年7月 佐藤彰男

会社を退職した後、先輩の推奨でOB会の世話役に加わりました。
ところが、この方はW大の俳壇に属しておられたとのことで会報誌(季刊)に毎号・投句するようとの指示で逆らえません!
爾来、我ながら中学生並みの句作を続けていますが自分なりに思い入れのある句 を文章を交えて4回シリーズ(2014/12〜2015/9)で掲載しました。
駄文ながら、ここに転載することと致します。                    


(その1/4)
「佐藤さん、あなたには俳句の先生っているの?」
「いるんだけど、あまり厳しい指導はされないんだ」
「・・・だと思ったよ。そもそも、あなたの句は詰め込み過ぎなんだよ。それを指導する先生がいないと常々思っていたんだ。日本画にせよ活け花にせよ空間や省略を重んずるのが日本文化の真髄なのに・・」

「ムムム・・・」

早期退職のあと勤めた外資系会社の同僚・О氏の弁。

商社出身で奇遇にもドイツのNKB(ニチメン・コマツ・バウマシネン)に駐在したので共通のコマツ人を知っている誼みもあってか、六歳・年少のはずなのにズケズケとモノを言う、憎めない好漢ではあるが・・
さだめし掲記の句などは、その代表なのだろう。
自ら句集も出版しているくらいだから俳句については一家言を持ち、この道の先輩格なので傾聴しておくべきかと。
で、この話を師匠にしたところ

「ナーニ、詰め込むのもワザの内だ、放っておけ!」とのご宣託。

「角を矯めて牛を殺す」の諺もある。 よって私は相変らず「自由に」句作を続けている。


(その2/4)
私の郷里・香川県は全国有数の少雨地域でかつては製塩業が盛んであり農業用水として大小の溜池が多いことでも知られている。しかし近年では旺盛なる水の需要を県内では賄いきれず高知県の早明浦(さめうら)ダムと云う巨大な水瓶に依存している。(因みに香川・高知の両県は地図をよく見ると分かるが県境を接してなく隣県ではない)この大規模ダムの完成に至る道のりが如何に大変だったかはネットに詳しく出ている。夏場のローカルニュースでは日々、早明浦ダムの本日の貯水率は××%と報じられて時には給水制限が講じられることもあるので県民は一喜一憂する。それにしても他県に降る雨の量が民の命綱であるとは本当に戦国時代でなくて良かった!

竜神(雨を司ると言われている)の「早明浦ダムへも行かにゃならんと思うが何せあそこは遠い遠い山奥なのでの・・・」との嘆きが聞こえる。そんな情景を詠んだつもりである。

ところが師匠より早速、指摘を頂いた。

「佐藤君、竜神と言う季語はないぞ!」「ムムム・・・」
自信作が一転して無免許運転が露見した気分になった。「状況証拠的」には「夏」の要件を満たしているのに・・とこちらも嘆き節になる。加えて、この句は師匠が嫌うところの「テレビ俳句」=即ち現地を踏んでおらずテレビの情景からの句=と言う減点(?)も付く。しかし出来の悪い子ほど可愛いと言うではないか。俳句を始めて間もない頃に作ったこの欠陥句(!)に私は今もほのかな愛着を持っていのである。

早明浦(さめうら)ダム

(その3/4)
大正四年生まれの母が逝って久しく、来年は三十三回忌である。

ドイツから帰国して間もなく母に胃癌が見つかり伝手を辿って東京・駒込病院で手術を受けさせたあと久し振りに一緒に住んだ。その頃はこの住宅の付近にも未だ空き地が多く、自生している白萩を採って来ては庭に並べていたところ母は目を丸くして「母子ってこんなところが似るものかね、私も萩が大好きなのよ!」と驚いていた。しかし三年後に病が再発した後は坂道をころがり落ちるが如く衰えて暑い夏に旅立った。(享年・六十八)

幼少の頃は人並にマザコンだったはずなのに長ずると何となく疎遠になった気がする。時期も状況も全て想い出せないが或る時、母が「片手で抱っこしていたのになー」と遠くを見るような表情をしたことが鮮明な記憶にある。不徳にもどんな生意気な言動をしたのだろうか。今更ながら申し訳なく詫びたい気持ちである。

母は無論、世間的には無名の生涯であったが偶々田舎の女学校の第一回・卒業生であったことより、永く同校(戦後は共学校)の同窓会長を務め、葬儀では後輩女性が弔辞を読んでくれた。あの大戦を挟んで我々五人のきょうだいを育てる傍ら、会長の仕事には本当に一生懸命だったことを子供心によく覚えている。今日、私が社友会やいくつかの同期会などの世話役に携わるのは間違いなく、この母から受け継いだDNAに拠るところと思っている。従って私は毎朝、仏壇の位牌を拝して加護を祈り毎年、正に「墓にフトンを着せる」ためにお盆帰省をするのである。  


(その4/4)
私が小学校に入学したのは戦後間もない昭和23年そして卒業が同29年なので私の小学校時代は昭和20年代にすっぽり収まることになる。「昭和20年代は日本に唯一度だけ訪れた正にユートピアの時代であった」と喝破したのは江分利満氏シリーズで人気を博した作家・山口瞳氏であるが私にも思い当る光景がある。

この時代、祝日には家々軒並み日の丸が掲げられていたし、小学校の校庭には毎朝、日教組の組合歌「緑の山河」が流れていた。

23年には「憧れのハワイ航路」がヒット、25年に朝鮮動乱が勃発すると世の中が急に浮かれだして「お座敷ソング」が流行った。小津安二郎・監督の名作映画「東京物語」は28年の作品。

六年生の秋に修学旅行があり各自、米を持参して広島を訪れ原爆ドームを観てショックを受けそして太田川にかかる平和橋をイメージして運動会で組体操を披露したのが掲題の句の背景である。

(余談ながら長男が少年時代、人並に?父子関係に悩んで叔父である私の末弟に相談に行ったところ「お前も大変じゃのう!何しろあの兄貴ときたら未だに昭和20年代を生きているんだからな・・」と諭されて目からウロコであったとか)

更に言えばこの句は永年、高校の国語教師を勤めた長姉が「アキオ、この句はエエワ!情景が浮かぶようにある」と褒めてくれた唯一の句であるがこれを超える句がその後、出来ぬとは嗚呼!・・と言う次第であまり身内のことを書くのは好きでないのだが後半の2編はそんな内容も入ってしまったことをご寛恕頂き私なりの戦後70年の締めくくりを以ってシリーズを終えます。