私の俳句散歩 令和4年7月  佐藤彰男

会社を退職した後、先輩の推奨でOB会の世話役に加わりました。
ところが、この方はW大の俳壇に属しておられたとのことで会報誌(季刊)に毎号・投句するようとの指示で逆らえません!
爾来、我ながら中学生並みの句作を続けていますが自分なりに思い入れのある句 を文章を交えて4回シリーズ(2014/12〜2015/9)で掲載しました。
駄文ながら、ここに転載することと致します。                    


(その1/4)

「佐藤さん、あなたには俳句の先生っているの?」
「いるんだけど、あまり厳しい指導はされないんだ」
「・・・だと思ったよ。そもそも、あなたの句は詰め込み過ぎなんだよ。それを指導する先生がいないと常々思っていたんだ。日本画にせよ活け花にせよ空間や省略を重んずるのが日本文化の真髄なのに・・」

「ムムム・・・」

早期退職のあと勤めた外資系会社の同僚・О氏の弁。

商社出身で奇遇にもドイツのNKB(ニチメン・コマツ・バウマシネン)に駐在したので共通のコマツ人を知っている誼みもあってか、六歳・年少のはずなのにズケズケとモノを言う、憎めない好漢ではあるが・・
さだめし掲記の句などは、その代表なのだろう。
自ら句集も出版しているくらいだから俳句については一家言を持ち、この道の先輩格なので傾聴しておくべきかと。
で、この話を師匠にしたところ

「ナーニ、詰め込むのもワザの内だ、放っておけ!」とのご宣託。

「角を矯めて牛を殺す」の諺もある。 よって私は相変らず「自由に」句作を続けている。

編注<あせぬぐい りょうせんたどり こきまぢか>


(その2/4)

私の郷里・香川県は全国有数の少雨地域でかつては製塩業が盛んであり農業用水として大小の溜池が多いことでも知られている。しかし近年では旺盛なる水の需要を県内では賄いきれず高知県の早明浦(さめうら)ダムと云う巨大な水瓶に依存している。(因みに香川・高知の両県は地図をよく見ると分かるが県境を接してなく隣県ではない)この大規模ダムの完成に至る道のりが如何に大変だったかはネットに詳しく出ている。夏場のローカルニュースでは日々、早明浦ダムの本日の貯水率は××%と報じられて時には給水制限が講じられることもあるので県民は一喜一憂する。それにしても他県に降る雨の量が民の命綱であるとは本当に戦国時代でなくて良かった!

竜神(雨を司ると言われている)の「早明浦ダムへも行かにゃならんと思うが何せあそこは遠い遠い山奥なのでの・・・」との嘆きが聞こえる。そんな情景を詠んだつもりである。

ところが師匠より早速、指摘を頂いた。

「佐藤君、竜神と言う季語はないぞ!」「ムムム・・・」
自信作が一転して無免許運転が露見した気分になった。「状況証拠的」には「夏」の要件を満たしているのに・・とこちらも嘆き節になる。加えて、この句は師匠が嫌うところの「テレビ俳句」=即ち現地を踏んでおらずテレビの情景からの句=と言う減点(?)も付く。しかし出来の悪い子ほど可愛いと言うではないか。俳句を始めて間もない頃に作ったこの欠陥句(!)に私は今もほのかな愛着を持っていのである。

早明浦(さめうら)ダム

(その3/4)

大正四年生まれの母が逝って久しく、来年は三十三回忌である。

ドイツから帰国して間もなく母に胃癌が見つかり伝手を辿って東京・駒込病院で手術を受けさせたあと久し振りに一緒に住んだ。その頃はこの住宅の付近にも未だ空き地が多く、自生している白萩を採って来ては庭に並べていたところ母は目を丸くして「母子ってこんなところが似るものかね、私も萩が大好きなのよ!」と驚いていた。しかし三年後に病が再発した後は坂道をころがり落ちるが如く衰えて暑い夏に旅立った。(享年・六十八)

幼少の頃は人並にマザコンだったはずなのに長ずると何となく疎遠になった気がする。時期も状況も全て想い出せないが或る時、母が「片手で抱っこしていたのになー」と遠くを見るような表情をしたことが鮮明な記憶にある。不徳にもどんな生意気な言動をしたのだろうか。今更ながら申し訳なく詫びたい気持ちである。

母は無論、世間的には無名の生涯であったが偶々田舎の女学校の第一回・卒業生であったことより、永く同校(戦後は共学校)の同窓会長を務め、葬儀では後輩女性が弔辞を読んでくれた。あの大戦を挟んで我々五人のきょうだいを育てる傍ら、会長の仕事には本当に一生懸命だったことを子供心によく覚えている。今日、私が社友会やいくつかの同期会などの世話役に携わるのは間違いなく、この母から受け継いだDNAに拠るところと思っている。従って私は毎朝、仏壇の位牌を拝して加護を祈り毎年、正に「墓にフトンを着せる」ためにお盆帰省をするのである。  


(その4/4)

私が小学校に入学したのは戦後間もない昭和23年そして卒業が同29年なので私の小学校時代は昭和20年代にすっぽり収まることになる。「昭和20年代は日本に唯一度だけ訪れた正にユートピアの時代であった」と喝破したのは江分利満氏シリーズで人気を博した作家・山口瞳氏であるが私にも思い当る光景がある。

この時代、祝日には家々軒並み日の丸が掲げられていたし、小学校の校庭には毎朝、日教組の組合歌「緑の山河」が流れていた。

23年には「憧れのハワイ航路」がヒット、25年に朝鮮動乱が勃発すると世の中が急に浮かれだして「お座敷ソング」が流行った。小津安二郎・監督の名作映画「東京物語」は28年の作品。

六年生の秋に修学旅行があり各自、米を持参して広島を訪れ原爆ドームを観てショックを受けそして太田川にかかる平和橋をイメージして運動会で組体操を披露したのが掲題の句の背景である。

(余談ながら長男が少年時代、人並に?父子関係に悩んで叔父である私の末弟に相談に行ったところ「お前も大変じゃのう!何しろあの兄貴ときたら未だに昭和20年代を生きているんだからな・・」と諭されて目からウロコであったとか)

更に言えばこの句は永年、高校の国語教師を勤めた長姉が「アキオ、この句はエエワ!情景が浮かぶようにある」と褒めてくれた唯一の句であるがこれを超える句がその後、出来ぬとは嗚呼!・・と言う次第であまり身内のことを書くのは好きでないのだが後半の2編はそんな内容も入ってしまったことをご寛恕頂き私なりの戦後70年の締めくくりを以ってシリーズを終えます。