2022年のエッセイ投稿 見出し

表 題掲載月投稿者
38度線を越えて ”北朝鮮からの引き揚げ”令和4年11月河村昌子 
『下総』吾が第2の故郷令和4年8/9月 田嵜隆三
私の俳句散歩令和4年7月佐藤彰男

38度線を越えて “北朝鮮からの引き揚げ” 令和4年11月 河村昌子

高らかに平和を誓う子らの声 とどけ地球のすみずみまでに

8月6日、9日と、広島、長崎では原爆犠牲者の慰霊祭がコロナ禍の中で行われ、子供代表者の読みあげる平和への誓いが会場に響き渡るのを万感の思いで聞きました。
戦後の荒廃から復興へ、誰もが不自由を不自由とも思わずに過ごした77年の歩みを思うとき、年々薄らぐ記憶の中を鮮烈によみがえるのは、当時10歳だった私の引揚げの体験です。

昭和20年8月15日の敗戦時、私の家族は父46歳、母39歳、姉16歳から弟2歳までの7人家族、黄海道沙里院市で父の勤務先 東洋拓殖株式会社の社宅に住んでおりました。

敗戦と同時に朝鮮半島は南北に分断、国境線が敷かれ、38度線からわずか北の沙里院はソ連の統治下になりました。それからは、昼夜を問わず扉を叩いて銃を持ったソ連兵が土足で上がり物品を要求、その度ごとに母と姉二人は防空壕に隠れるのでした。又あるときは、ソ連兵に追われた元関東軍の兵士が駆け込んで来たのを、父は危険を承知で匿い、数日後、裏口から密かに見送ったこともありました。

ある日、突然ソ連軍より「宿舎にするので二時間以内に退去せよ」との指令が入り、荷物を選別する暇もなく、リュック一つで郊外の知人宅に身を寄せることになりました。
ところが、父が居間の畳の下に隠していた大切な書類を置いて来たことに気がつき「先方には連絡してあるから取りに行ってくれないか」とその役が私に回って来たのです。後で考えると、大人では目立ち過ぎ連行されかねない、子供の方が目立たずに済むと判断しての使い走り役でしようか、それにしても炎天下の道は人影もなく不気味に静まり、子供ながらに緊張感で汗びっしょり、ようやく社宅に着きベルを押すと、若いロシアの夫婦が風呂敷包みを持って現れました。

毎日新聞社「在外邦人引揚の記録 写真集」より転載

受け取りに来たのが子供だったのに驚き、優しく話しかけて来るのを、お礼もそこそこに風呂敷包みを受け取り、ただただ走り、ふと振り向くと野犬が舌を出して追いかけてくるのです。その怖かったこと、幸い途中でいなくなりましたが生きた心地がしませんでした。

背後には闇に銃口開きおり 月冴えかえる三十八度線

10月21日の夕刻、リュックを背負った老若男女98名が懐かしい小学校に集まり、貨車に乗せられ 38度線手前で降ろされました。後は国境線を越えるばかり。ところが、昼間はソ連兵の監視が厳しくて危険、仮眠をとり夜出発の伝令。深夜にかけての出発となりました。まず腹ごしらえと四日前のおにぎりを弟に手渡すと、これはおにぎりではないと泣いて食べません。仕方なく鱈の干物を持たせると静かになりました。

父は弟を背負い先導に、未就学の妹は牛車に、姉二人は父の後を、集団の真ん中には母と私が並び、歩けど歩けど目的地は遥か先、猛烈な睡魔に襲われ、水溜まりに足をとられたとき休憩の伝令があり、大地に転がり眠ってしまいました。突然「昌子起きなさい」の声に眼を開けると、母の暖かい手が私の手をしっかりと握り「お父さんが、ゆっくり寝かしておきたいけど遅れるから起こせ」と、母の声に眼気もとび必死で歩き38度線を流れる青丹川につきました。浅瀬の飛び石を滑らないように全員が渡り終えたころには、しらじらと夜が明けていました。

無事国境を越えた私たちはその後、牛車六台を雇い、寝不足にうつらうつらしていると、治安隊とは名ばかりの検問所に連れて行かれ所持品の検査が始まりました。筵(むしろ)敷きの上に金目になる品物が積まれわが家の番になりました。父の背広、母の訪問着など素早く抜き取られましたが、暫くすると治安隊員の女性が、何か小脇に抱え戻って来るや、素知らぬ顔で母のリュックに入れたのは何と母の大切な訪問着でした。
彼女の一瞬の決断の優しさに、どのような境遇にも相手をおもいやる心の温もりを感じたのでした。

訪問着母から私へ娘へ継なぐ 百年ももとせ四季の花裾模様

ようやく京城にたどり着いた私達家族は、父の会社の社宅に起居し、引き揚げ船の出る釡山への出発を待つばかりでした。 
11月8日、待ちにまった釡山行きの貨車に乗り釡山港に到着、埠頭は乗船を待つ引き揚げ者が溢れ、帰国の順番待ちに使っていたのでしょう、先人達が残した、石を重ねた、にわか作りの竈で炊飯、着のみ着のままで船を待つ4日間でした。

毎日新聞社「在外邦人引揚の記録 写真集」より転載
毎日新聞社「在外邦人引揚の記録 写真集」より転載

11月12日、帰国船「徳寿丸」に乗船、船はすし詰めの状態でしたが横になるだけの空間はあり、エンジンの音と波に揺られこれまでの緊張感から解放されて眠り続け翌朝博多に到着。ところが、その日はアメリカ軍の休日と言うことで上陸できず、翌日DDTを全身に浴び、日本の土を踏むことが出来ました。

博多には引き揚げ列車が待っていて順次乗車、列車はゆめにまで見た祖国の地を走りましたが、都会を通過する度に目に入るのは空襲の焼け跡、神戸、大阪を通過するや黒々と広がる焼け跡に息を飲み、焼け残ったトタン屋根で囲んだだけのバラックや、野外で炊飯する人々の姿に、空襲を知らない私達はただ唖然とするだけでした。

首都圏に入るやその光景はすざまじさを増し、上野の地下道にたむろする戦争孤児達が、リュック一つの私達にまで物乞いの痩せた手を差し出すのには、恐怖と痛ましさが交錯、子供心にも敗戦のみじめさを感じた瞬間でした。

米国公文書館資料より転載 A Photograph of an Aerial View of Firebombed Tokyo

11月16日の夜、北上川沿いの田園地帯に住む父の故郷、宮城県桃生郡河北町に家族7人が無事に帰国しました。祖母、伯父、伯母、その家族に暖かく迎えられたことは僥倖と言うよりほかありません。  戦後、満州からは100万余の一般引揚者が、北朝鮮からは70万人が、生死を分ける苛酷な状況の中、祖国にたどり着きました。

その方達の体験を読み、聞くにつけ、一人の死者、病人も出さず帰国出来た私の引揚げ体験は、取るに足らぬものと思っていましたが、21世紀の今、2月に始まったロシアのウクライナ侵略に再びの戦争が 身近にあることの危機感を持ち、語り継がねばとの思いを強くしました。戦争で犠牲になるのは一般庶民であり大切な子供達です。

いざと言う時の軍隊は国民を助けてはくれません。

冒頭の「私たちが未来を創る番」と頼もしい声を届けてくれた子供たちのためにも戦争のない地球を残したい。これは戦争を知る世代の悲願であり、祈りです。

難民の列の映像にリュック背負う 少女のわれの影を添わしむ

編集者注:文中の短歌4首は河村昌子さんの作です。

『下総』吾が第2の故郷
 令和4年8月 田嵜隆三

『下総』吾が第2の故郷(1/4)  

浮き草の吾らの根絶つ恨のコロナ 帰省せぬ間に家・友逝った

お盆と甲子園野球の季節だけは、誰はばからず故郷の回想と自慢話が許されるものだが感染防止の逼塞の3年間に、状況が大きく変った様だ。この間に瞼の『田舎』は消滅し傘寿~喜寿の幼友=『トモガキ』は、次々に鬼籍入りしたり、老人ホームに入居の一方、リモートワーク化でUターンする若者(彼等も壮年)達が相続した実家だけでなく邑をも大-改造中で、墓参りのついでに実家や老友宅を訪問しても現れるのは怪訝そうに詮索眼の孫達や彼の嫁さんばかりの知らない邑。

たまたま、親切に連れて行って呉れた先は老人ホームで友人はそこの入居者。 
まさしく『浦島太郎帰郷風景然の故郷』に変貌らしい。名実ともに故郷消失!!
吾らは、もはやこの布施新町を新たな故郷と心得て『終の棲家』化の覚悟が必要らしい。先ずは、イキイキネットワークの同輩の方々には『新たなトモガキ』としてご厚誼をお願いする次第、何卒よろしくお願いいたします。

さて、私は布施新町の『終の棲家』化に格好の経験をしたので2-3紹介させて戴きたい。
先ず、次の和歌は誰が読んだのか、皆さんは判りますか?

よそにても風の便りに吾ぞ問ふ 枝離れたる花の宿りを・・平将門

<歌碑は、坂東市岩井公民館駐車場 に>

王朝文化が絶頂後の天慶の御代(AD940頃)、関東の下総(北千葉県~南茨城県)で朝廷に反旗を掲げて関八州を席巻の上、自らを『新皇』と居直った、日本史上第1号の逆族者=平将門(タイラ マサカド)が 敵将=平貞盛(タイラ サダモリ=将門の従兄で平清盛の高々(6代)々祖父) の女房(従兄妹)に攻撃を前に脱出を促した手紙の中の和歌

平将門の王城の地には、茨城県説(菅生沼周辺~坂東市)と千葉県説(手賀沼周辺~旧沼南町)とが在り多少の差異・同義があるものの、どちらも平貞盛が真の悪党で真正直・裏切りなしの任侠武将の将門は唆かされ載せられた、と信じられている。平将門はこの和歌を読んで、1ケ月後の坂東・北山の戦いで流れ矢に当たって死去し首が京に獄門曝しになる。その顔(絵巻)は鬼面そのものなるが、地元では誰も信じてなく、上の優しい和歌そのものの『貴公子像(坂東市音楽堂)』と確信し悲運で強い武将を慕う農民達は『この人こそ、我が在所の英雄』として1000年超しの本家争いまで展開しているが、史上の敗者にはない破格の扱いである。


ーー第1回分 了ーー


 『下総』吾が第2の故郷(2/4) 

千年の昔を辿る故事探査 大利根川の無き様読めづ・・隆三

<平将門王城の地の本家争い、利根川無ければ同じ下総-相馬の地>

さて、先回『平将門の王城の地』に、茨城県説(菅生沼周辺~坂東市)と千葉県説(手賀沼周辺~旧沼南町)とが有り双方が本家争いをしていると書いたが 先ず、九州人の私が知り得た想定外の事実と解釈違いの顛末から・・・・・。
(当然ながら、私に我孫子の魅力を教えた『我孫子の文化を守る会』は将門の王城の地としては[手賀沼周辺~旧沼南町]説のみで他説は教えなかったが・・・・・)
千年後の我々は典型的な同じ皿中の好物を両端から綱引きしていたのである。

葉県北部の古名は『相馬(ソウマ)』とか『下総(シモフサ)』と呼ばれる。是を地図で確認する際は現代の地図帳で確認しては大間違いする。
強いて参照するならば今の『利根川』は無いモノとし、現在の千葉県と茨城県は単一大地としての判断が必須だ。『下総』は現在の千葉県北部と茨城県南部からなる連続地なのである。
<今の利根川は、徳川幕府が武田残党(土木技術者)を使って洪水多発の江戸湾の陸進に関東北部の河川水を銚子方面に変流(=放水路化)する『利根川東遷』事業の遺産>

現在、平将門の王城の地は①茨城県説(菅生沼周辺~坂東市)と②千葉県説(手賀沼周辺~旧沼南町)とが在るも、①②の直線距離は20kmで利根川が無くば略同一の地。

進-中国から輸入され華が咲いた『律令制度』は、古代日本の統一に功績を上げたものの10世紀に入ると綻びが現れる。艶福家の天皇達が多くの皇子を設けられると荘園(収入源)に枯渇⇒氏を与えての平民化⇔地租免責の開墾競争発生。平将門は『桓武天皇の王孫=平高望王』の孫として下総にて誕生・成長した。都に修行(勤務)もしたがこの前、父親=良将は下総の多数の沼地(水深1m未満)を干拓しては水田化し富裕化していた。鎮守府将軍に任ぜられるも戦病死した。
一方、干拓下手の大伯父=平国香一族は良将の荘園を横取りした。特に平国香の長男=平貞盛は中央官僚=行政官として官の権限を使って『法的強奪』を計り此処に[(伯父vs甥)⇒従兄弟同士]の土地争い⇔骨肉戦となった。
朝廷は最初は身内の遺産争いと無視していたが、勢余った将門軍の兵士による役所(親貞盛)に乱入したとの報告に、朝敵=賊として扱った。彼らは全12回程大きな戦いをしたが、概ね 地元の英雄=将門が勝ったので天皇は、貞盛等の進言を容れ『将門に神罰を与える為成田山の造営』を勅願され開山と同時に将門の調伏を祈願された。

坂東市総合文化ホールベルフォーレ前庭にある平将門像

ーー第2回分 了ーー

(第3回,第4回分は次月掲載予定)

『下総』吾が第2の故郷(その2)
 令和4年9月 田嵜隆三

『下総』吾が第2の故郷(3/4)  

吾の師我孫子の先生将門贔屓(ヒイキ) 帝の願でも成田は詣ぜず・・隆三

門の最期になった、AD940年(天慶3年)2月14日(旧暦)の現坂東市・北山の戦いは当初優勢だった将門軍が小休止中に、それ迄将門軍に味方した強い追風が止んで逆風となった。兜を外していた将門の額に流れ矢が当り、即死した。戦上手の英雄将門も、今で言う『春一番』の知識はなかった様だ。
逆に、攻め手の平貞盛&藤原秀郷連合軍はこの時とばかり集中して『矢』を放った。これぞ朱雀天皇の『将門調伏』ご祈祷への天祐だった。

<是は典型的な、『春一番』気象であるが、朱雀天皇ご祈願への調伐と尊ばれている>

朝廷を震撼させ征夷大将軍を相手に勇敢に戦った、賊軍=将門軍も任侠の親分だった将門が戦死しては副将=実弟達も無力のまま、一気に瓦解した。
攻め手の厳しい残党狩で、将門の4実弟や協力した武将達と女達は殺された。唯一の存命者は娘(後に如蔵尼として)で、国王神社に父=将門を祀って現在に繋ぐ。
この後は、平貞盛は再び京にもどって中央政府の官僚となって、6代後の子孫=平清盛等に継ぐが多くの武将は『坂東武者=兵(ツワモノ)』として在所する。多くは、京都に平清盛が君臨の頃 不平等に不満を抱く。彼らは清盛の晩年源頼朝の招請に応じ『坂東武者』団として平家を殲滅し200年間の鬱積をはらす。
<是を事由に1000年経つ今も尚 我孫子市民は『成田山』への参拝を遠慮してる、と>

成田山新勝寺

門は政治的工作は下手の様だが、戦いや人心の掌握等には優れた才能を有した。 
是の『将門の乱』後1100年経つも人気者であり、担がれ易かった人物だった様だ。   戦って敵地に入りその地を占領する。是AD935-939年の短期間で関八州を手中に。  最期の無血入城の上野(群馬県)の古社で、興世王等に担がれて『新皇』に就いた。

<此の、担れたものの『新皇を自称し都建設』に着手----が決定的な国賊の烙印に> 

朝廷は藤原忠文を征夷大将軍に任命して、大軍を特派し大攻撃をかけた。先述の下総・北山の戦いで成田山の 誅伐により戦死⇒首は京都に送られ掲首

<以上については、京の僧侶による『将門記』が有るそうな-----田嵜未読>

勝って都の官僚化した平貞盛の子孫(6代目)には、平清盛等が輩出するが世渡り上手はこの頃からだったのかもしれない。奇異なのは、公家⇒武家社会の転換期同じ高望王の孫達が身内争いをし、彼らの関係者の子孫が、200年後平家と源家に別れて争い、武家社会の先鞭化に至った事に面白い輪廻を感じる。

ー第3回分 了ー

『下総』吾が第2の故郷-4/4

本日、天気晴朗なれど 波高し・・気象庁予報官:岡田武松→海軍参謀:秋山真之

平将門が、今では子供でも知っている『春一番』に配慮しなかった為の非運な戦死から1000年後に我孫子に超優秀な気象の専門家が登場し、我が国存亡の危機を救った事はご存知だろうか? AD1905年5月27日早朝、ロシヤ艦隊来襲日の未明冒頭の電報が気象庁から連合艦隊-参謀に届いた。参謀は全艦艇に捨身の戦法を下達。

<国松予報官→連合艦隊・秋山参謀⇒高波&高視界戦術≡敵前回頭他の実施を進言

<岡田武松氏(AD1874-1956)=我孫子出身⇒東大・理学部⇒中央気象台勤務の予報官>

後年、ドイツ軍がポケット戦艦と呼んだ2万トン級小型の戦艦とさらに弱小の巡洋艦から成る日本の艦隊が3~4万トンのロシヤ-バルチック艦隊に勝てる筈は無かったが、意表を衝いた敵前回頭(敵艦隊にT字状に対面し敵の1隻づつを全艦で攻撃≡海賊戦法)の効で日本軍は1隻もヤラレズ敵艦隊を全滅させたのが、冒頭の岡田予報官の電文だった。世界は全艦沈没は日本艦隊と信じ、ロシヤの宮殿は3昼夜の祝賀宴を催した。
逆に、日本軍は此の戦法を羞じ『大艦巨砲化』を計ったが対米戦で無力のままだった。

沼の鳰 はかないをなご 呼べどこず・・・・・・瀧井孝作

東京高等師範学校長の嘉納治五郎氏がAD1911に手賀沼を見下ろす我孫子-天神山に別荘を建てると3年後には娘婿の柳宗悦が来我して、いわゆる白樺派の文人達を招致し屈指の文人村出現、正岡子規後継のアララギ派の歌人達が・・山ほどの手賀沼讃歌を発表、下は『我孫子の文化を守る会』の先生から、習い虜になったほんの一部の短歌で珠玉の作ですが、私にとって『終りの日まで』続けられそうな『終生呪文』の数々である。

筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみを かなき渡りなむ逢ふとはなしに・・万葉集

指してゆく棹の取手のわたしもり 思ふ方へととくつきにけり・・徳川斉昭

下つ総に哀へ果つる手賀沼を 母とよび歌ふ声励まして・・・・・・・・鈴木国郭

かつしかや手賀の大沼に雪ふりて 鳰のなくきけば君ぞ恋しき・・中勘助

白鳥の翼に似たる大橋を 明かあか染めて秋の陽沈む・・・・・・・・・田嵜隆三

嘉納治五郎先生の像(我孫子市天神山緑地)

                              ーー第4回分 了ーー  

私の俳句散歩 
令和4年7月 佐藤彰男

会社を退職した後、先輩の推奨でOB会の世話役に加わりました。
ところが、この方はW大の俳壇に属しておられたとのことで会報誌(季刊)に毎号・投句するようとの指示で逆らえません!
爾来、我ながら中学生並みの句作を続けていますが自分なりに思い入れのある句 を文章を交えて4回シリーズ(2014/12〜2015/9)で掲載しました。
駄文ながら、ここに転載することと致します。                    


(その1/4)

「佐藤さん、あなたには俳句の先生っているの?」
「いるんだけど、あまり厳しい指導はされないんだ」
「・・・だと思ったよ。そもそも、あなたの句は詰め込み過ぎなんだよ。それを指導する先生がいないと常々思っていたんだ。日本画にせよ活け花にせよ空間や省略を重んずるのが日本文化の真髄なのに・・」

「ムムム・・・」

早期退職のあと勤めた外資系会社の同僚・О氏の弁。

商社出身で奇遇にもドイツのNKB(ニチメン・コマツ・バウマシネン)に駐在したので共通のコマツ人を知っている誼みもあってか、六歳・年少のはずなのにズケズケとモノを言う、憎めない好漢ではあるが・・
さだめし掲記の句などは、その代表なのだろう。
自ら句集も出版しているくらいだから俳句については一家言を持ち、この道の先輩格なので傾聴しておくべきかと。
で、この話を師匠にしたところ

「ナーニ、詰め込むのもワザの内だ、放っておけ!」とのご宣託。

「角を矯めて牛を殺す」の諺もある。 よって私は相変らず「自由に」句作を続けている。

編注<あせぬぐい りょうせんたどり こきまぢか>


(その2/4)

私の郷里・香川県は全国有数の少雨地域でかつては製塩業が盛んであり農業用水として大小の溜池が多いことでも知られている。しかし近年では旺盛なる水の需要を県内では賄いきれず高知県の早明浦(さめうら)ダムと云う巨大な水瓶に依存している。(因みに香川・高知の両県は地図をよく見ると分かるが県境を接してなく隣県ではない)この大規模ダムの完成に至る道のりが如何に大変だったかはネットに詳しく出ている。夏場のローカルニュースでは日々、早明浦ダムの本日の貯水率は××%と報じられて時には給水制限が講じられることもあるので県民は一喜一憂する。それにしても他県に降る雨の量が民の命綱であるとは本当に戦国時代でなくて良かった!

竜神(雨を司ると言われている)の「早明浦ダムへも行かにゃならんと思うが何せあそこは遠い遠い山奥なのでの・・・」との嘆きが聞こえる。そんな情景を詠んだつもりである。

ところが師匠より早速、指摘を頂いた。

「佐藤君、竜神と言う季語はないぞ!」「ムムム・・・」
自信作が一転して無免許運転が露見した気分になった。「状況証拠的」には「夏」の要件を満たしているのに・・とこちらも嘆き節になる。加えて、この句は師匠が嫌うところの「テレビ俳句」=即ち現地を踏んでおらずテレビの情景からの句=と言う減点(?)も付く。しかし出来の悪い子ほど可愛いと言うではないか。俳句を始めて間もない頃に作ったこの欠陥句(!)に私は今もほのかな愛着を持っていのである。

早明浦(さめうら)ダム

(その3/4)

大正四年生まれの母が逝って久しく、来年は三十三回忌である。

ドイツから帰国して間もなく母に胃癌が見つかり伝手を辿って東京・駒込病院で手術を受けさせたあと久し振りに一緒に住んだ。その頃はこの住宅の付近にも未だ空き地が多く、自生している白萩を採って来ては庭に並べていたところ母は目を丸くして「母子ってこんなところが似るものかね、私も萩が大好きなのよ!」と驚いていた。しかし三年後に病が再発した後は坂道をころがり落ちるが如く衰えて暑い夏に旅立った。(享年・六十八)

幼少の頃は人並にマザコンだったはずなのに長ずると何となく疎遠になった気がする。時期も状況も全て想い出せないが或る時、母が「片手で抱っこしていたのになー」と遠くを見るような表情をしたことが鮮明な記憶にある。不徳にもどんな生意気な言動をしたのだろうか。今更ながら申し訳なく詫びたい気持ちである。

母は無論、世間的には無名の生涯であったが偶々田舎の女学校の第一回・卒業生であったことより、永く同校(戦後は共学校)の同窓会長を務め、葬儀では後輩女性が弔辞を読んでくれた。あの大戦を挟んで我々五人のきょうだいを育てる傍ら、会長の仕事には本当に一生懸命だったことを子供心によく覚えている。今日、私が社友会やいくつかの同期会などの世話役に携わるのは間違いなく、この母から受け継いだDNAに拠るところと思っている。従って私は毎朝、仏壇の位牌を拝して加護を祈り毎年、正に「墓にフトンを着せる」ためにお盆帰省をするのである。  


(その4/4)

私が小学校に入学したのは戦後間もない昭和23年そして卒業が同29年なので私の小学校時代は昭和20年代にすっぽり収まることになる。「昭和20年代は日本に唯一度だけ訪れた正にユートピアの時代であった」と喝破したのは江分利満氏シリーズで人気を博した作家・山口瞳氏であるが私にも思い当る光景がある。

この時代、祝日には家々軒並み日の丸が掲げられていたし、小学校の校庭には毎朝、日教組の組合歌「緑の山河」が流れていた。

23年には「憧れのハワイ航路」がヒット、25年に朝鮮動乱が勃発すると世の中が急に浮かれだして「お座敷ソング」が流行った。小津安二郎・監督の名作映画「東京物語」は28年の作品。

六年生の秋に修学旅行があり各自、米を持参して広島を訪れ原爆ドームを観てショックを受けそして太田川にかかる平和橋をイメージして運動会で組体操を披露したのが掲題の句の背景である。

(余談ながら長男が少年時代、人並に?父子関係に悩んで叔父である私の末弟に相談に行ったところ「お前も大変じゃのう!何しろあの兄貴ときたら未だに昭和20年代を生きているんだからな・・」と諭されて目からウロコであったとか)

更に言えばこの句は永年、高校の国語教師を勤めた長姉が「アキオ、この句はエエワ!情景が浮かぶようにある」と褒めてくれた唯一の句であるがこれを超える句がその後、出来ぬとは嗚呼!・・と言う次第であまり身内のことを書くのは好きでないのだが後半の2編はそんな内容も入ってしまったことをご寛恕頂き私なりの戦後70年の締めくくりを以ってシリーズを終えます。